2020年6月10日水曜日

川崎富作先生

NEWSで川崎先生が老衰のためお亡くなりになったことを知りました。
川崎先生といえば
先生の名前がついた病気「川崎病」を初めて発見した先生。
日赤本院(現日赤医療センター)の小児科部長を経て
川崎病の研究所で研究を続けられました。

昭和54年5月 その時4月に転勤。
1か月が過ぎたころ、連休明け。
生後2か月の子が高熱と嘔吐でミルクも全く受け付けません。
ミルクを30センチの高さの噴水のようにぴゅーと吐きだして。

隣の人に小児科を聞いて ここが良いと教えてもらったのが
井口小児科クリニック。
そこで調剤をしてもらっても 全て吐いてしまうし高熱は続く。
2日後にまた来てくださいと言われたのですが
母が電話口から「そんな小さな子が高熱が出ることがおかしい。
2日待たずに今日もう一度その先生に 時間外でもなんでもいいから
訪ねて診察をお願いしてきなさい」と言いました。

熱は下がらず 夫と二人でタクシーに乗って時間外に訪問
丁度小学高学年のお嬢さんが出てきたので話をすると
奥様が出てこられ、「夕方5時に来てください」と仰いました。
5時に訪ねると 隔離待合室で喉を見て 
「喉が真赤ですが 発疹があるようにも見える。
しかしはしかの免疫はあるはずだから 川崎病かもしれない。
ぼくの兄弟子の川崎先生が日赤医療センターにいるから
連絡を取るので今夜行ってください。紹介状を書きます」とのことで
その足でタクシーと地下鉄日比谷線とタクシーで夜間日赤へ。
そこには小児科の先生が救急外来にいて直ぐ点滴。
アスピリンを中心に。血液が固まらないようにするためとのこと。
特別室には同日に入院した3人の救急小児患者がいました。

父母はすぐに様子を見に来てくれました。まだ特別室にいた時です。
症状が落ち着いてから一般病室へ。
面会時間は午後3時から6時まで。
往復3時間かけて3時間の面会。夫が5時過ぎに来てくれたので一緒に帰宅した1か月間。
まだ物心がついていなかったので そんなに泣いたりすることはなく
親の顔もよく分からないのだろうかと思ったり。
退院までの間に 六本木が近いからかテレビ朝日が取材に来ました。
私の子供より症状が多く出ていた隣のベッドの女の子、5カ月くらいの子と
説明をする川崎先生を取材していきました。

日赤の小児科病棟の半分くらいは川崎病の子ではなかったかと思ったほどでした。
比較的男子に多く、3-4歳くらいの子もいました。
退院後 一週間おきに二回、二週間おきに二回、一か月おきに二回の診察。
では次は半年後と言われてぬか喜びして
帰りに原宿のキディランドと 明治神宮へお参りに行った後で 再発。

ということで生後9か月で二度目の川崎病での入院。
再発する子は罹った子の100人に一人くらいと聞きました。
比較的順調に治り、お正月休みとなるので退院を早めてもらえました。
この時は物心がついているため 涙涙の大合唱。
どこの子も同じで午後6時は親子ともに後ろ髪を引かれる時間でした。

二度目の退院後 子供が2歳の時に転勤が決まり 急きょ心臓に異常がないかどうか調べる
「カテーテル検査」を受けました。その時の先生の名前は園部先生。
のちに新聞の社会欄で 園部先生ご自身が 難病でお子様をなくされたことを
随筆に書かれていて
お医者様の子供さんでも亡くなる運命ということもあるのだという思いを抱きました。

川崎先生や日赤医療センターの先生に感謝の気持ちを込めてここに記しました。
コロナに罹った患者の中に 川崎病に似た症状の人がいることからも
注目されました。
川崎病の原因説に溶連菌説があり 喉から発熱するようですし
コロナも川崎病も原因が解明され 早くコロナのワクチンが出来ますように。